右肘の靭帯損傷により選手生命を絶たれ、男子マネージャーに転身した高校生の藤原駆。彼は裏方として部を支えながら、弓道部の絶対的エースであり幼馴染でもある水野凛を密かに想い続けていた。しかし全国大会予選を目前に控え、凛は原因不明のスランプに陥ってしまう。完璧主義な性格ゆえに焦りを募らせる凛は、手助けしようとする駆を拒絶し、二人の距離はすれ違っていく。怪我のトラウマを抱える駆と、エースの重圧に押し潰されそうな凛。データ分析を通じて彼女を救いたい駆の必死な想いは、意固地になった彼女の心を解きほぐすことができるのか。夏の熱気が満ちる道場で、止まっていた二人の時間が再び動き出す。
第1章 蝉時雨と鈍い弦音
肌を刺すような強い日差しが照りつけ、グラウンドの向こうには揺らめく陽炎が立ち上る八月の猛暑の中、俺、藤原駆は弓道場の入り口で静かに息を呑んだ。
重い木製の引き戸が開くガラガラという乾いた音とともに、道場特有の爽やかな竹と松ヤニの匂いが、夏の熱気を押し返すように鼻腔をくすぐってくる。
俺は首から下げた年季の入ったストップウォッチの冷たい金属面に指先を触れさせながら、道場の隅に置かれたマネージャー専用のパイプ椅子へと腰を下ろした。
弓道場の静寂を切り裂くように、弦が打たれた直後の鋭い発射音が周囲の空気を震わせ、その数秒後にはパンという甲高い的中音が遠くの安土から響いてくる。
巻藁に向かって黙々と弓を引き続けているのは、我が弓道部が誇る絶対的エースであり、俺が密かに心を寄せている同級生の水野凛だった。
きつく一つ結びにされた彼女の黒髪が、射の残心とともに揺れ、左手首にきっちりと巻かれた純白のテーピングが強い日射しを反射して眩しく光っている。
(……また、わずかに右上に逸れてるな。弓返りのタイミングがほんの少しだけ遅れているのかもしれない)
俺は膝の上に広げたバインダーに挟まれた記録用紙へ視線を落とし、握りしめたシャープペンシルで淡々と的中データと微細なブレを書き込んでいった。
二年前の夏、右肘の重い靭帯損傷によって選手としての道を絶たれた俺は、こうして裏方から部を支える男子マネージャーとしての役割を受け入れた。
手に残るストップウォッチの冷ややかな感触は、自分がもう二度とあの射位に立てないという事実を突いてくる。
それと同時に、今の立場では彼女の隣に並べないというもどかしい距離感を突きつけてくるのだ。
「藤原くん、今の射の動画、ちゃんと撮れてたかしら。後でフォームの確認をしたいから、データを送っておいてほしいのだけれど」
凛は弓を脇に抱えると、汗で頬に張り付いた髪を乱暴に手払うようにしながら、どこか抑え込まれた低い声で俺の方を振り返った。
「ああ、もちろんバッチリ撮ってあるよ。ただ、水野……少し肩に力が入っている気がするから、一度水分補給でもして休憩を入れた方がいいんじゃないか」
「……大丈夫。全国大会の予選までもう時間がないの。私はもっと引かないと、みんなを引っ張っていけない」
彼女は単語ごとに切るような素っ気ない口調で短く返すと、俺の提案には耳も貸さなかった。
すぐに次の矢を矢筒から抜き取って、再び矢尺を測り始めている。
その頑なな横顔には、周囲からの過剰な期待という目に見えない重圧と、急激に調子を落としている焦燥感がハッキリと刻み込まれていた。
俺はマネージャーという立場上、出過ぎた差し出口を叩くべきではないと自分に言い聞かせ、込み上げてくる心配の言葉をぐっと喉の奥へ押し戻した。
(本当なら「一人で抱え込むな」と叫んでその華奢な肩を抱きしめたいのに、ただの記録係に過ぎない自分がそんな領域に踏み込む資格なんてないんだ)
そう思い知らされるのが悔しかった。
凛は再び凛とした立ち姿で弓を大きく押し開き、狙いを定めるために深く息を吸い込んだが、その肘は目に見えて微かに震えていた。
弦が手を離れた瞬間、ベシッという鈍く湿った不穏な音が道場内に虚しく響き渡り、放たれた矢は綺麗な軌道を描くことなく的に嫌われた。
凛の放った矢が的枠に弾かれた乾いた音が道場に響き渡った瞬間、彼女の背中がびくぐりと大きく揺れ、その場に固まった。
枠に当たって斜めに跳ね返った矢は、乾いた音を立てて安土の砂の上に転がり、道場内には耐えがたい沈黙が重く重く垂れ込める。
「くっ……なんで……どうして急に当たらないのよ……っ!」
凛は悔しそうに下唇を強く噛み締めると、握りしめた弓を強く床に叩きつけそうになるのを必死で耐えながら、うつむいて呼吸を荒らげた。
彼女の左手首に巻かれた白いテーピングが、まるで痛々しい傷口を覆う包帯のように見えて、俺の胸は締め付けられるような激痛に襲われる。
「今日はもう上がった方がいい。集中力が切れた状態で引き続けても、悪い癖がつくだけだからさ」
俺は努めて穏やかなトーンで話しかけながら、冷えたスポーツドリンクのペットボトルを持って彼女の方へゆっくりと歩み寄った。
「触らないで!」
激しい拒絶の言葉に、思わず足が止まる。
「……ごめんなさい、そういう意味じゃないの。ただ、今は一人にしてほしいだけ」
凛は差し出されたボトルを避けるようにして一歩後ろへ退くと、すれ違いざまに一度だけ俺を強い眼差しで見つめ、すぐに視線を逸らした。
彼女の瞳の奥には、弱点を見せたくないという強い意地と、思うように身体が動かないことへの根深い恐怖の色が渦巻いていた。
凛は急いで弓を弓袋に収めると、バインダーを抱えて立ち尽くす俺の脇をすり抜け、いつもよりずっと早い足取りで道場の出口へと向かっていく。
「水野……」
俺は去っていく彼女の背中に向けて小さくつぶやいた。
だが、その声は猛烈な蝉時雨の音にかき消され、誰に届くこともなく消えていった。
道場の引き戸が勢いよく閉まり、一人取り残された俺は、手元に残された分析ノートを強く握りしめながら深く重い息を吐き出す。
怪我をした俺を誰よりも心配してくれた彼女を今度は俺が助けたいという切実な願い。
それと同時に、下手に介入して拒絶されることへの恐れが心の中で激しく渦巻いていた。
重苦しい空気と熱気が充満する道場で、俺は彼女が残していった松ヤニの匂いを感じながら、これから訪れるであろう厳しい試練の予感に震えていた。
第2章 拒絶と落日の影
夕暮れのオレンジ色の光が大きな窓から容赦なく射し込む蒸し暑い部室には、息が詰まるほどの重苦しい空気が淀みなく漂っていた。
西日によって朱色に染まったパイプ椅子が整然と並ぶ室内で、部員たちの熱気と汗の匂いが混ざり合い、夏特有の蒸せ返るような圧迫感を生み出している。
弓道部男子部長である五十嵐健太は、日焼けした大きな腕を組みながら、周囲を圧するような威勢のいい大声を部室全体へと響かせた。
「よし、全国大会の予選まで残された時間はあとわずかだ!全員、絶対に団体戦も個人戦も予選突破を目指して一丸となって突き進むぞ!」
健太は癖のある短髪を豪快に掻き揚げながら、身振り手振りを交えて熱く語りかけた。
しかし、その大きな瞳は部室の隅に佇む人物へ心配そうに向けられていた。
そんな部長の熱量あふれる檄が飛ぶ中で、凛は一人だけ輪から外れたようにぽつんと椅子に腰掛け、終始うつむいたまま視線を落としている。
彼女は周囲の歓声や拍手には一切反応を示さない。
左手首に巻かれた純白のテーピングを、指先で執拗になぞりながら巻き直す動作を繰り返していた。
そのテーピングは、周囲からの「エースだから当たって当然」という苛烈な期待と重圧から、自分自身の脆い心を必死で守ろうとする痛々しい鎧のように映る。
俺は胸の奥を激しく締め付けられるような痛みを覚えながら、首から下げたバインダーの金具を指先で強く握り締め、意を決して彼女の方へと一歩を踏み出した。
「健太、少し頼まれていたデータの整理をしてくるよ」
「……水野、ちょっといいか」
俺は手に持っていた一冊の分厚い分析ノートを引き締まった心地で抱え直した。
そして部員たちの隙間を縫うようにして、凛の座る椅子の前まで静かに歩み寄った。
「藤原くん……何かしら。今は大会前の大事なミーティングの最中だと思うけれど」
凛はゆっくりと顔を上げたものの、その瞳には深い疲弊と警戒の色が色濃く滲んでいた。
少し低めの落ち着いた声で短く突っぱねるように問いかけてくる。
「これ、見てほしいんだ。ここ数日間の君の射形をコマ送りで分析して、手首の角度と離れのタイミングのズレをまとめたノートなんだよ」
俺はノートを開いて見せながら、自分が怪我で選手を降りてから培ってきた膨大なデータと、彼女を救いたい一心で昨夜遅くまで書きつづった改善案を示した。
「ビデオ検証で見つかった微小な癖なんだけどさ。右肘の引き込みがほんの僅かに浅くなっている。そこを直せば絶対に元の的中率に戻るはずだ」
自分の誠意と客観的な事実が伝われば、きっと彼女の焦りを和らげるきっかけになるはずだ。
俺はすがるような想いで、凛の表情の変化を食い入るように見つめた。
しかし、俺が発した「ビデオ検証」という言葉を聞いた瞬間、凛の眉がピクリと大きく跳ね上がり、その綺麗な瞳に激しい拒絶の感情が燃え上がった。
彼女の喉が小さく鳴り、呼吸が荒くなると同時に、今まで必死に抑え込んでいた怒りと悲しみが一気に表面へとあふれ出してくるのが分かった。
「……見ないでって言ったじゃない!どうしてそんなに私のことを監視するような真似をするの!?」
凛は弾かれたように立ち上がると、叫び声とともに俺の手元にあった分析ノートを、左手で乱暴に払いのけた。
バサリという乾いた音が部室内に虚しく響き渡り、開かれていたページが床の上へと虚しく散らばった。
部室内を一瞬にして不穏な静寂が包み込み、健太を含めた周りの部員たちが何事かと驚きに満ちた視線をこちらへ一斉に向けてくる。
「私を哀れんでいるんでしょう!?怪我で引退したあなたに、私の今の苦しみが分かってたまるか!もう放っておいてよ!」
凛は冷酷な言葉を捨て置くように吐き捨てると、青ざめた顔で唇を噛み締めたまま、部室のドアを勢いよく開けて外へと走り去っていった。
ドアがガタンと大きな音を立てて閉まり、後には夕暮れの赤黒い光と、床に散乱した手書きのノートだけが残される。
(俺の手酷い思い上がりが、彼女を一番傷つけてしまったんだ……!)
俺は伸ばしかけた手を空中で虚しく停止させたまま、自分の愚かさと無力さに激しい自己嫌悪を感じ、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
自分の差し伸べた善意の手が、結果として彼女のプライドを酷く傷つけ、最も追い詰めてはいけない方向へと追い込んでしまったという後悔が渦巻く。
怪我をした自分だからこそ分かってあげられると過信していた高慢さが、二人の間に取り返しのつかない決定的な亀裂を生んでしまったのだ。
「駆、大丈夫か?……あいつ、今は相当追い詰められて余裕がないんだ。お前が自分を責める必要はないぞ」
健太が歩み寄ってきて、俺の肩にぽんと重い手を置き、諭すような温かい声で静かに声をかけてくれた。
「いや、俺がダメだったんだ……マネージャーという立場を傘に着て、彼女の心を踏みにじってしまったんだよ」
俺は床に落ちたノートのページを一枚ずつ拾い上げた。
指先が震えるのを抑えることができず、ただ絶望的な溜息を吐き出すことしかできなかった。
手書きでびっしりと埋められた数字や線が、今の二人のすれ違った感情のように虚しく歪んで見えて、胸の奥が焼き尽くされるような焦燥感に支配される。
橙色から濃い群青色へと刻一刻と変化していく夕闇の中で、俺と凛の間の断絶は、救いようのないほど深くなってしまったという重い余韻が残った。
第3章 雨宿りの告白と温かな雨上り
暗雲が立ち込めた空から激しい雨が叩きつけ、むっとする湿度と雨の匂いが静かな道場を包み込んでいた。
部活動の終わり際に降ってきた突然の豪雨に対し、部長の健太は「道具の点検をしてから帰れ」と言い残し、巧みにカギをかけて去っていった。
取り残された俺と凛は、雨足が強まる道場の軒下で、狭い屋根の隙間を分け合うようにして寄り添って立っていた。
二人の足元には、昨日の激しい衝突で水滴を吸い、青いインクがじんわりと滲んでしまった分析ノートがぽつりと置かれている。
ノートの端に滲む文字を凝視しながら、俺は喉の渇きを覚えて何度も生唾を飲み込み、会話の糸口を探して視線をあちこちへ彷徨わせた。
凛は白いテーピングが巻かれた左手首を右手で強く握りしめ、雨粒が打つ砂利を見つめたまま、微かに肩を震わせている。
「……藤原くん。昨日はひどいことを言ってごめんなさい。私、どうかしていたの」
ぽつりと落ちた小さな声に俺が息を呑むと、凛はうつむいたまま、隠しきれない本音を絞り出すように語り始めた。
「本当は分かっているの。私のことを誰よりも考えてアドバイスしてくれているって。でも、自分の不甲斐なさに耐えられなくて……」
彼女の長いまつ毛が湿り気を帯びて震え、ポロポロと大きな涙が頬を伝って足元の泥の上に落ちていく。
自分一人で重圧を背負い込み、折れそうになりながらも必死に虚勢を張り続けていた少女の脆さが、雨の音に混ざって溢れ出していた。
(もう我慢なんてできるかよ……!)
凛が堪えきれずに涙をこぼした瞬間、俺の中にあった躊躇いや遠慮は一瞬にして吹き飛んだ。
俺は震える彼女の肩へと力強く手を伸ばしていた。
「謝るなよ、水野。俺こそ、君の苦しみに気づいていながら、マネージャーという立場を言い訳にして逃げていたんだ」
俺は彼女の華奢な肩をしっかりと抱き寄せると、泥のついたノートを拾い上げ、彼女の真っ直ぐな瞳を逃げずに見つめ返した。
「怪我をして弓を引けなくなった時、絶望していた俺を救ってくれたのは君の引き締まった射形だった。だから今度は俺が君を支えたい」
俺の情熱のこもった言葉を受けて、凛は驚いたように眉を跳ね上げ、涙に濡れた瞳を大きく見開いて息を呑んだ。
滲んだノートを一緒に広げながら、俺はデータをひとつひとつ丁寧に解説し、彼女が抱えていたスランプの根拠と解決策を優しく提示した。
「この練習量と分析があれば大丈夫だ。水野の努力は絶対に嘘をつかないし、俺が最後まで責任を持って隣で見ていくから」
「……ありがとう、藤原くん。私、もう一度自分と向き合ってみる。あなたの言葉を信じてみたいの」
凛は目元をユニフォームの袖でゴシゴシと拭うと、弱さを削ぎ落とした力強い笑顔を浮かべ、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
握り合わされた手の温もりがじわじわと体内に広がり、凍りついていた二人の間の心の距離が急速に溶けていくのを実感する。
いつしか激しい雨は上がり、雲の切れ間から差し込んできた光が、濡れた安土や木々の葉をキラキラと黄金色に輝かせていた。
雨上がりの澄んだ空気の中で、俺たちは固く結ばれた確かな絆を感じ取りながら、明日からの戦いに向けて深く静かに頷き合った。
第4章 晴れ渡る射位と繋がる視線
雨上がりの澄み切った青空から爽やかな光が降り注ぎ、心地よい風が吹き抜ける早朝の弓道場は、静謐な空気に満ちていた。
昨日までの激しい湿気や重苦しい雰囲気が嘘のように拭い去られ、ピンと張り詰めた静けさの中で、夏の爽やかな朝気が肌を心地よく撫でていく。
俺は道場の後方に置かれたパイプ椅子に背筋を伸ばして腰掛け、首から下げたバインダーをしっかりと抱えながら、射位に立つ凛の姿をじっと見つめていた。
バインダーには挟み直されたばかりの真っ白で真新しい記録用紙がセットされており、これから書き込まれていく二人だけの新しい時間に胸が高鳴る。
凛は以前のように悲壮感を漂わせることもなく、きつく一つ結びにされた黒髪をなびかせながら、しなやかで一切の無駄がない完璧な動作で弓を構えていた。
「よし、引き分けから会への移行がすごくスムーズだ。肘の高さも昨日修正した通りの理想的なラインを保てているな」
俺は手元のストップウォッチを軽く操作して秒数を測定しながら、彼女の美しい射形に思わず感嘆の吐息を漏らし、口元を緩ませた。
昨日の夕立の中で本音をぶつけ合い、互いの迷いを拭い去ったことで、彼女の心に巣食っていたスランプの影は完全に霧散したようだった。
凛は深く静かな息を吸い込みながら弦を極限まで引き絞り、狙いを的に定めるためにその鋭い瞳をキッと見開いた。
その表情にはエースとしての揺るぎないプライドと自信が戻っており、彼女が本来持っていた圧倒的な美しさが道場全体を支配していく。
パンという澄んだ高音とともに離れた弦が空気を震わせ、放たれた一本の矢は一切のブレもなく真っ直ぐな軌道を描いて飛んでいった。
パンッという快音とともに安土の砂が小さく舞い上がり、美しい静寂が戻ってきた。
「すごいな……完璧だ。矢どころもブレていないし、何より離れのキレが以前よりも増しているよ」
俺は興奮を抑えきれずに勢いよく立ち上がると、バインダーに素早く満点のチェックを入れながら、弾んだ声で彼女へと駆け寄っていった。
「ええ、藤原くんのデータのおかげよ。右肘の意識を変えただけで、こんなに気持ちよく腕が振れるようになるなんて思わなかったわ」
凛は弓をゆっくりと倒しながら俺の方を振り返り、照れくさそうに頬を少し赤らめながら、柔らかく可憐な笑みを浮かべて見せた。
普段はストイックで近寄りいがたい彼女が魅せるその素直な表情は、俺の胸を強く打ちつけ、マネージャーとしての誇り以上の愛おしさを芽生えさせる。
「これなら明日の県大会予選も絶対に大丈夫だ。チーム全員で最高の波に乗って、全国への切符を掴み取りに行こう」
「うん!私、絶対に負けない。藤原くんが特等席で見守ってくれているんだから、全勝してみせるわ」
凛は左手首に巻かれた純白のテーピングを愛おしそうになでながら、俺の目を真っ直ぐに見つめ返し、力強くうなずいて見せた。
そこへ部室から走ってきた健太が豪快な笑い声を上げながら割り込んできた。
「おいおい、朝から熱々だな!」
健太は俺たちの背中をバシバシと力強く叩く。
「健太、急に叩くなよ!……でも見てただろ?今の水野の射、文句のつけようがない完璧なものだったぞ」
「ああ、バッチリ見させてもらったぜ。おい水野、お前の復活でチームの士気も最高潮だ!明日は絶対に勝つぞ!」
「もちろんよ、部長」
健太は親指をグッと立てて叫び、凛もまた力強く答え、部全体が一つにまとまっていく感覚が道場を満たしていく。
過去のすれ違いや挫折を乗り越えた俺たちは、もう二度と解けない強い絆で結ばれ、最高の状態で決戦の舞台へと挑む準備を完了させていた。
第5章 静寂の射場と決着の一矢
会場内に充満する独特の熱気と張り詰めた緊張感が肌を鋭く刺す中、県大会会場の武道館は超満員の観客で埋め尽くされていた。
観客席から見下ろす巨大な射場には静粛を促すアナウンスが響き渡り、各校の選手たちが放つ矢の的中音だけが断続的に響いている。
俺は観客席の最前列でパイプ椅子の背もたれに背中を預け、握りしめたバインダーの端を指先で強く押さえつけながら、下方の射位を注視していた。
隣に座る健太も、普段の豪快な態度をすっかり影を潜めさせ、固く結んだ唇から浅い息を漏らしながら、舞台上の仲間たちを見守っている。
女子団体の予選は熾烈を極め、各校が肉薄する中で我が校は同点に並び、土壇場でのタイブレークへと持ち込まれていた。
一本の的中が命運を分ける極限状態の場面で、大歓声を背景にしながら、大集団の視線を一瞬にして集める最後の射手として凛が射位へと進み出た。
(……水野、頼むぞ。お前のいつもの射を見せてやってくれ)
俺は喉の奥を酷く乾かせながら、首から下げたストップウォッチをギュッと握り締め、心の中で祈るようにして彼女の背中へ声援を送った。
射位に立った凛は、袴の裾を軽く整えると、すっと背筋を伸ばして的を見つめ、静かに呼吸を整え始めた。
彼女は弓を構える直前、ふと視線を観客席の最前列へと巡らせ、俺の姿を捉えると、ほんの少しだけ口元を緩ませて見せた。
凛は左手首に巻かれた純白のテーピングを、右手でそっとさするような仕草を見せ、俺に向けて「大丈夫」という無言のサインを送ってきた。
それは他の誰にも分からない、辛い苦難やすれ違いを二人で乗り越えてきたからこそ通じ合う、特別な合言葉だった。
胸の奥がカッと熱くなり、俺は言葉にならない感動に震えながら、力強くうなずいて彼女のサインに応えてみせた。
視線を的に戻した凛の全身から迷いや恐怖は完全に消え去り、静かで圧倒的な集中力が彼女の周囲の空気を歪めていく。
ゆっくりと弓が押し開かれ、弦が彼女の美しい頬へと吸い寄せられていき、完璧な引き分けから「会」の瞬間が訪れた。
会場全体が息を呑み、静寂が極限まで深まったその瞬間、凛の手から弦が弾かれ、鋭い発射音が武道館に響き渡った。
パンッという凄まじい的中音が館内に轟き、次の瞬間には割れんばかりの歓声の渦が巻き起こった。
完璧な軌道を描いて的の真ん中を射抜いた矢を確認した瞬間、審判の白旗が勢いよく上がり、我が校の全国大会出場が決定したのだ。
「やった……!勝ったぞ、駆!全国決定だ!」
健太が大声を上げて俺の肩を激しく揺さぶり、観客席のあちこちから割れんばかりの大きな拍手と歓声が湧き上がった。
俺は込み上げてくる熱い涙で視界を滲ませながら、立ち上がって全力で拍手を送り、射場に立つ凛の姿を誇らしく見つめた。
歓声に包まれる射場で、弓を倒した凛はゆっくりとこちらを振り仰ぎ、涙ぐむ瞳で真っ直ぐに俺の視線を受け止めてくれた。
言葉などなくても、互いの想いが完全に重なり合い、抱えてきた苦労が報われたことを確信できる、深い繋がりと歓喜の余韻が胸いっぱいに広がっていった。
第6章 夕涼みの影と踏み出す一歩
激闘の末に全国大会出場を決めた県大会の狂騒が静まり返り、橙色と淡い紫色が溶け合う美しい夕暮れが街全体を優しく包み込んでいた。
大会会場からの帰り道、熱狂の余韻を残した他の部員たちより一足先に離脱した俺と凛は、誰もいない住宅街の緩やかな坂道を二人きりで歩いていた。
遠くからかすかに聞こえる蝉時雨の音と、川沿いから吹き抜ける微かな夏の風が、祭りの後のような穏やかな寂しさと心地よい切なさを運んでくる。
俺はズボンのポケットの中で、ずっと握りしめていたストップウォッチのひんやりとした金属面に指先を触れさせながら、隣を歩く彼女の横顔をそっと盗み見た。
手元の金属の感触は、これまで俺たちを縛りつけていた「マネージャーと選手」という役割の終わりと、新しい時間が動き出す予感を静かに告げている。
凛は部活用のエナメルバッグを軽く肩に掛け直し、左手首に巻かれた純白のテーピングを愛おしそうになぞりながら、少しだけ歩調を緩めた。
「ねえ、藤原くん。少しだけ立ち止まって、夕焼けを見てもいいかしら」
凛は坂道の途中で足を止めると、夕日に照らされて黄金色に輝く街並みを見下ろしながら、どこか眩しそうな様子で目を細めた。
「ああ、いいよ。今日は本当によく頑張ったな、水野。君の最後の射、本当に格好よかった」
俺も彼女の隣に並んで立ち、手すりに腕を預けながら、素直な称賛の言葉を口にした。
彼女の横顔を夕光が柔らかく彩り、風になびく黒髪がキラキラと光を反射して、胸が締め付けられるほどの愛おしさがこみ上げてくる。
凛は小さく息を吸い込むと、握りしめていたカバンのストラップをギュッと強く握り直し、ゆっくりと俺の方へと身体を向けた。
「あのね、藤原くん。大会が終わったら絶対に言おうって、ずっと心に決めていたことがあるの」
彼女の声は微かに震えていたが、その瞳は誤魔化しようのない強い意思を宿しており、俺の目を逃げずに真っ直ぐに見つめてきた。
凛の頬が夕日の赤さよりも深く赤く染まり、彼女の喉が緊張で小さく鳴るのを、俺は息を殺して見守った。
(世界全体の色彩が、一瞬で鮮やかに塗り替えられていくみたいだ……!)
俺の胸の奥で何かが弾け、衝撃と高揚感が駆け巡る。
「私ね、弓道を教えてくれる藤原くんのことが好き。ただのマネージャーとしてじゃなくて、一人の男の子として、ずっと恋していたの」
彼女の口から零れ落ちた真っ直ぐな言葉は、夏の爽やかな風に乗って俺の心の中へとストレートに届き、温かな熱となって全身を駆け巡った。
凛は恥ずかしそうに視線を泳がせながらも、自分の本心を伝えきった満足感からか、花が咲くような可憐で美しい笑みを浮かべて見せた。
「水野……ありがとう。俺もだよ。怪我をして選手を諦めた時からずっと、俺の光になってくれた君のことが好きだった」
俺はポケットから手を取り出すと、自分自身の素直な想いを言葉に乗せて返し、彼女の華奢な手を優しく包み込むようにして握りしめた。
俺の大きな手の中で、凛の小さな手が温かく握り返され、もうすれ違うことのない互いの鼓動が確かに伝わってくる。
「これからは、マネージャーと選手としてだけじゃなくて……もっと近くで、隣を歩かせてくれるか?」
「ええ、喜んで。……私を一番近くで支えてくれるのは、あなたじゃなきゃ嫌よ」
凛は恥ずかしそうにうつむきながらも、握りしめた手にぎゅっと力を込め、幸福感に満ちた笑みを零した。
茜色から深い群青色へと移ろいゆく夕闇の中、並んで歩き出す二人のシルエットが緩やかな坂道の上に長く伸びていく。
長かったすれ違いの季節を乗り越えた俺たちは、確かな愛しさと絆を胸に抱きながら、新しい明日へと繋がる一歩を力強く踏み出した。
これまでの苦難もスランプもすべて完全解決したことを実感しながら、二人の甘く穏やかな時間はどこまでも続いていくのだった。
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