女子バスケットボール部でエースとして期待されながらも、右膝の重傷によって選手生命を絶たれた橘彩音。コートに立てない絶望と未練を抱え、彼女はマネージャーとしてチームを陰から支えていた。そんなある日、ぶっきらぼうな新任コーチ・氷室大地から、戦術分析の赤いバインダーを無理やり手渡される。選手に戻るという甘い妄想を捨て、頭を使って戦えという冷酷な宣告だった。反発しながらも、彩音は一年生のエース・神崎美桜との衝突や、試合での的確な戦術指導を通じて、裏方としてチームを勝利へ導く新しい自分の居場所を見出していく。コートの外から仲間を支える元エースの再起と成長を描く青春スポーツドラマ。
・右膝の大怪我により選手を引退し、マネージャーへ転身した少女。深い未練と葛藤を抱えていたが、コーチからの課題をきっかけに、優れた戦術眼を活かしてチームを支える新たな道を見出していく。
・無精髭にスウェット姿がトレードマークのバスケットボール部新任コーチ。一見すると適当でぶっきらぼうだが、彩音の隠れた才能と戦術眼を誰よりも早く見抜き、彼女を厳しくも的確に導いていく。
・高い身体能力と優れたセンスを持つチームのエース。プレッシャーに弱く感情が表に出やすいが、彩音の的確な指示と信頼に応えることで、プレイヤーとして大きく成長を遂げていく。
第1章 コートの外の風
十一月の寒風が容赦なく吹き抜け、夕暮れの校庭からは陸上部の足音や野球部の声がうっすらと響いていた。
女子バスケットボール部が練習に励む体育館の空気は冷え切っており、大型のジェットヒーターが低い駆動音を立てて熱気を送り出しているものの、足元から忍び寄る底冷えを完全に拭い去るには至っていない。
橘彩音はパイプ椅子の冷たさに耐えながら、抱え込んだスコアブックに素早く数字を書き込んでいった。
黒のジャージのポケットには使い古されたテーピングのハサミが収まっており、歩くたびに太ももへカチカチと硬い感触を伝えてくる。
そのハサミは彼女がコートの主役だった頃の名残であり、今やマネージャーという裏方に甘んじている現状を静かに突きつけていた。
コート上では、一年生のエースである神崎美桜が鋭いドライブから綺麗なジャンプシュートを沈めていた。
肩口で揃えられた黒髪が軽やかに揺れ、左手首に巻かれた赤いリストバンドが鮮やかな残像を描く。
「ナイスシュー、神崎。でも、今のカットインは右膝の軸が少し甘いんじゃない?」
彩音はスコアブックから視線を上げることなく、気怠げなトーンのままコートへ向けて声を掛けた。
「えっ、本当っすか? 自分的には完璧なタイミングで踏み込めたと思ってた場面だったんすけど!」
美桜は額の汗を手の甲で拭いながら、目を丸くして彩音の方へと振り返った。
彼女の表情には尊敬と、同時に隠しきれないライバル心が入り交じった複雑な色が浮かんでいる。
「相手のディフェンスが強豪校のガード陣なら、あの踏み込みの甘さを突かれてあっさりブロックされるわよ。もう少し重心を低く保って、相手の足の隙間を抜けるような意識を持ちなさい」
彩音は淡々と指示を出しながらも、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚を覚えていた。
かつて自分が立っていたはずのコート中央で、まぶしいほどの輝きを放つ後輩の姿を見るたび、羨望と嫉妬が入り混じったドロドロとした感情が湧き上がってくる。
(私が怪我さえしなかったら、あの場所でパスを呼び込んでいたのは自分なのに)
一年生だった昨年の冬、全国予選の激闘の最中で右膝の前十字靭帯を断裂したあの瞬間の感覚が、未だに鮮明な記憶として蘇る。
無理をして出場を強行した判断への後悔と、それを止められなかった周囲への理不尽な怨嗟が、冷え切った胸の底で重く渦巻いていた。
「彩音先輩、また難しい顔をしてスコア書いてるじゃないですか。たまにはコートに入って直接お手本を見せてくれてもいいんですよ?」
美桜が冗談めかして笑いながら、ボールを腰に当てて近づいてくる。
その無邪気な言葉は、彩音の柔らかい心をナイフのように容赦なく削り取った。
「馬鹿ね。マネージャーがコートに入ったらルール違反で一発退場よ。ほら、無駄口叩いてないで次のシュートフォームの確認に戻りなさい」
彩音は努めて明るい声を作り、小突き回すように手を振ってみせた。
内面の葛藤を悟られないよう、彼女はいつだって完璧な先輩でありマネージャーを演じ続けているのだった。
全体練習の終了を告げる笛が鳴り、部員たちは片付けと整理体操のために散らばっていった。
タオルで汗を拭う者や、喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲む者たちの活気ある声が、広い体育館の中に響き渡る。
部員たちが引き揚げた後、体育館の照明が半分落とされ、静寂が急速に広がり始めた。
薄暗くなったコートには、松ヤニと湿布が混ざり合った独特の匂いが重く滞留しており、それが彩音の鼻腔を強く刺激する。
彩音はベンチの片付けを終え、パイプ椅子を壁際に整列させていた。
ふとコートの真ん中に視線をやると、片付け忘れた一個のバスケットボールがポツンと転がっているのが目に入った。
橘彩音は無意識のうちに足を動かし、そのボールへと近づいていった。
床を踏みしめる靴底の音が、静まり返った館内に虚しく反響する。
(ただのボールなのに、どうしてこんなにも重く見えるんだろう)
ボールの前に立った彩音は、ゆっくりと腰を落とし、傷ついた右膝に負担をかけないよう慎重に手を伸ばした。
オレンジ色の革の質感、指先に残るザラザラとした感触を想像しただけで、鼓動が早くなっていくのが分かる。
しかし、指先がボールの表面に触れる直前、右膝の奥深くで「ピキリ」と鋭い痛みのシグナルが走った。
「くっ……」
彩音の動きが完全に固まり、伸ばした手が空気中で虚しく停止した。
膝の奥から込み上げてくる拒絶反応のような鈍痛が、彼女の全身の筋力を瞬時に奪い去っていく。
彼女は苦痛に唇を噛み締め、呼吸を乱しながら、ゆっくりと伸ばしていた手を引いた。
ボールを拾い上げるという当たり前の動作すら、今の自分には許されていないのだという残酷な現実が、冷酷な錘のように肩へのしかかる。
「やっぱり、ダメか……」
消え入りそうな声でつぶやいた彩音は、ボールから視線を背け、自分の右膝を強く叩いた。
膝を抱え込むようにして小さく丸まった彼女の影が、カクテル光線の下で静かに伸びていた。
その頃、部室棟の廊下では、夏休み明けの激務を終えた顧問が「今年の盆休み突入時期は災難だったな」と漏らしながら、校外模試の成績データとデジタルギフトの景品申請書をバインダーに挟んで歩いていた。
さらに、来月に迫った高体連の優秀選手表彰式という名のセレモニーの準備に追われる声が、遠くの職員室から漏れ聞こえていたが、それらの雑音は今の彩音の耳には一切届いていなかった。
静寂に包まれた体育館で、彩音は一人、二度と戻れないコートの感触を思い出しながら、ただじっと立ち尽くすことしかできなかった。
第2章 冷えたノートと重い過去
翌朝の部室棟は、冬の気配を含んだ透明な空気に包まれており、早朝の静寂が廊下の隅々まで深く張り詰めていた。
橘彩音は吐く息を白く凍らせながら、金属製の鍵を鍵穴に差し込み、重いドアをゆっくりと押し開けた。
室内には埃っぽさと乾いた布の匂いが混ざり合って漂っており、冷え切ったパイプ椅子の脚が床と擦れて甲高い音を立てた。
彩音は黒のジャージの袖を少し伸ばして手を温めながら、パイプ机の上に丁寧に整列させたスコアブックの束に手を伸ばした。
「朝早くから熱心なことだな。マネージャーの鑑とでも言っておくべきか」
突然、背後のドア付近から低く掠れた声が響き、彩音の肩がピクリと跳ね上がった。
振り返ると、くたびれたグレーのスウェット姿に不精髭を蓄えた男が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。
今月から外部コーチとして着任した氷室大地だった。
「コーチ……おはようございます。鍵が開いていたので、昨日のデータの整理をしようと思いまして」
彩音は姿勢を正し、気怠げな口調を崩さないように配慮しながらも、どこか身構えるような視線を氷室へ向けた。
氷室は無精髭を軽く指で擦ると、重い足取りで室内へ歩み寄り、机の上に置かれていた分厚いノートへと視線を落とした。
それは彩音が現役時代からつけ続けているスコアブックであり、単なる得点記録にとどまらず、各選手の癖やパスの角度まで詳細に記された特製のデータ集だった。
「ふん、相変わらず無駄に細かく書き込まれているな。お前の自己満足が詰まったノートか」
氷室は遠慮のない手つきでスコアブックをひったくると、パラパラと雑にページをめくり始めた。
紙が擦れる乾いた音が部室内に響き渡り、彩音は胸の奥を直接触られたような不快感と焦燥感を覚えて息を飲んだ。
「自己満足ではありません。チームの傾向を把握するために、私が毎試合分析して記録している大切なデータです」
彩音は喉の奥を小さく鳴らし、首から下げたテーピングハサミをギュッと握りしめながら反論した。
「傾向の把握ね。だが橘、お前はこのノートを使ってチームを勝たせようとしているのか、それともコートに立てない自分を慰めようとしているのか、どちらなんだ?」
氷室はノートをめくる手を止め、冷ややかな視線を彩音の真っ直ぐな瞳へとぶつけた。
その言葉は、彼女が心の奥底にひた隠しにしていた一番柔らかく痛い部分を正確に射抜いていた。
彩音の息が止まり、視線が泳いだ。
胸の奥で渦巻く悔しさと未練が熱い塊となって喉元までせり上がってくるのを、彼女は必死で押し殺した。
自分がもう選手ではないと分かっていても、スコアを書くことでしかバスケットボールと繋がっていられない惨めさを指摘された気がした。
「……私はただ、マネージャーとしてできることをやっているだけです。選手たちが少しでもプレーしやすいように」
「嘘をつくな。お前の目はまだプレイヤーの目だ。コートでボールを追いかけたいという未練に引きずられながら、中途半端な気持ちでノートを埋めているに過ぎん」
氷室はそう切り捨てると、スウェットのポケットから一冊の真っ赤なバインダーを取り出し、大きな音を立てて机の上に叩きつけた。
「今日からこのバインダーを使え。次節の相手校の分析と、うちのオフェンスパターンの再構築を命じる。来週のミーティングまでに完成させておけ」
突然突きつけられた命令に、彩音は言葉を失って固まった。
赤いバインダーの表面には使い込まれた傷が幾重にも刻まれており、奇妙な圧迫感を放っていた。
「ちょっと待ってください。私はマネージャーであって、戦術を決める立場ではありません。それに、そんな専門的なことはコーチがやるべき仕事でしょう?」
「お前の戦術眼を見込んで言っている。お前のスコアブックは、ただの記録係が書けるレベルを超えている。だが、選手に戻れるという甘い妄想を捨てない限り、その知識はドブに捨てるのと同じだ」
氷室は彩音の顔を覗き込み、一字一字を噛み締めるように低く言い放った。
「お前はもう選手じゃない。頭を使え。足が動かないなら、脳みそをコートの上で走らせろ」
その冷酷な宣告は、部室内を切り裂く刃のように彩音の全身を貫いた。
膝の痛みがフラッシュバックし、二度とあの大歓声のコートに戻れないという事実が、逃げ場のない現実として彼女の肩に重くのしかかる。
彩音は唇を強く噛み締め、悔しさで視界がじわじわと滲むのを耐えた。
目の前にいるだらしない風貌の男が、自分の限界を誰よりも冷静に見抜き、そして容赦なくトドメを刺してきたことが猛烈に腹立たしかった。
「……私が断ったら、どうするんですか」
震える声を振り絞り、彩音は氷室を強く睨みつけた。
「別に断っても構わん。その代わり、お前は一生そのベンチの隅で、他人のお手本を眺めながらハサミでも弄っていればいい」
氷室は興味を失ったかのように背を向け、煙草の箱をポケットから探りながら部室のドアへと向かった。
「決めるのはお前だ、橘。だが、自分の居場所は自分で作らねば誰も与えてはくれんぞ」
パタンと静かにドアが閉まり、部室内には再び冷たい静寂が戻ってきた。
彩音は一人取り残され、机の上に残された真っ赤なバインダーを見つめた。
それを手に取れば、自分が「二度とコートに立てない裏方」であることを完全に受け入れることになる気がした。
しかし、彼女の手は自然と動き、冷えたプラスチックのバインダーを抱きしめるように強く握りしめていた。
怒りと戸惑い、そしてほんの少しの破れかぶれな期待が混ざり合い、彼女の胸の動悸を激しく打たせていた。
第3章 交錯するライン
乾いた冬の風が歪んだ窓枠をカタカタと揺らし、室内には石油ストーブの独特な匂いがほんのりと漂っていた。
放課後のミーティングルームは静まり返っており、赤い筒の中で揺らめく炎の温かな光だけが、壁や床をぼんやりと照らしている。
橘彩音はパイプ椅子に深々と腰掛け、氷室から渡された赤いバインダーを開いたまま、ペンを滑らせていた。
壁に設置された大きなホワイトボードには、黒と赤のマーカーで無数の矢印やポジション名が乱雑に描かれている。
「うーん、神崎の右ドライブからの展開だけど、やっぱりここで足が止まる癖が出ちゃうのよね」
彩音は眉間にシワを寄せながら指先でトントンと机を叩き、自分の思考の迷いを振り払うように呟いた。
スコアブックの数値と動画データを照らし合わせるうち、一年生エースの決定的な課題が鮮明に浮き彫りになっていたのだった。
そこへガラリとドアが開き、部活帰りの神崎美桜がスポーツドリンクのボトルを片手に姿を現した。
肩口で切り揃えられた黒髪が軽く湿っており、練習終わりの熱気が彼女の身体からほのかに立ち上っている。
「彩音先輩、まだ残ってたんすか? 氷室コーチからなんか難しい課題を出されたって聞きましたけど」
美桜は無邪気な笑みを浮かべながら近づき、ホワイトボードに描かれた複雑な図形を覗き込んだ。
「ええ、次節の戦術構築よ。ついでに神崎、あなたのプレー動画を分析して気になった点があるのだけど」
彩音はペンの後ろでホワイトボードの一点を指すと、気怠げなトーンを崩さないまま視線を美桜へ向けた。
「あなたの右ドライブは確かに鋭いけれど、相手のヘルプディフェンスが入った瞬間に視野が極端に狭くなるわ。だから、抜けた後のパス選択が遅れて無駄なターンオーバーが増えているの」
彩音の言葉は、完璧な分析に基づいた純粋なアドバイスのつもりだった。
しかし、それを受けた美桜の表情が瞬時に強張り、喉の奥が引きつるように小さく鳴ったのを彩音は見逃さなかった。
「……それって、自分のプレーがチームの足を引っ張ってるって言いたいんすか?」
美桜の語尾からいつもの軽快さが消え、左手首の赤いリストバンドを指先で強く引っ張る癖が出始めていた。
「そうじゃないわ。修正すればもっと得点力が上がるっていう話をしているのよ。自分の感情とデータは分けて考えなさい」
彩音は努めて冷静に説明しようとしたが、その客観的な言い方が裏目に出て、かえって美桜の不満を煽ってしまう。
「データ、データって……先輩はいつもそうやって上から目線で指示してきますよね! 自分は毎日コートで吐くほど走って、プレッシャーと戦いながら必死にボールを追いかけてるんすよ!」
美桜の大きな瞳に涙が溜まり、怒りと悔しさが混ざり合った強い視線が彩音の胸を鋭く刺した。
彼女はプレッシャーに弱い自分への苛立ちを、目の前の先輩へとぶつけずにはいられなかったのだ。
「私だってコートで戦いたいわよ! 好きでこんなところでノートを開いてるわけじゃないわ!」
彩音の口から、抑え込んでいた本音が思わず突いて出た。
叫んだ瞬間、胸の奥がカッと熱くなり、指先が激しく震えた。
「でも私にはもう走れる膝がないの! だから言葉で伝えるしかないんじゃない!」
叫び声が狭い室内に反響し、ストーブのハチノスが微かに鳴る音だけが二人の間に流れた。
彩音は自分の感情を乱暴に爆発させてしまった後悔で息を呑み、慌てて口元を手で覆った。
「……ずるいっすよ、そんな言い方。コートに立てない先輩に、私の本当の気持ちなんてわかるわけないじゃないですか!」
美桜は絞り出すような声で吐き捨てると、乱暴に涙を拭い、背を向けてミーティングルームを飛び出していった。
バタンと激しい音を立ててドアが閉まり、静寂が再び室内に覆いかぶさる。
彩音は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、ホワイトボードの前に一人取り残された。
マーカーで引かれた無数の線が、自分と後輩の間に横たわる決定的な溝のように見えて、彼女はただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
第4章 コートを穿つ声
激しい雨粒が大型窓を叩きつけ、館内には湿ったワックスと汗の交ざり合った強烈な匂いが充満していた。
休日の他校との練習試合は第3クォーターの終盤を迎え、点差はジワジワと広がりを見せていた。
橘彩音はベンチの最前列でパイプ椅子に浅く腰掛け、膝の上に開いた赤いバインダーへ必死にペンを走らせていた。
コート上では、エースとしての重責に押し潰された神崎美桜が、立て続けにパスミスを犯して立ち尽くしていた。
美桜の肩は大きく上下しており、左手首の赤いリストバンドを幾度も気にしながら、自暴自棄のような視線を彷徨わせている。
相手ガード陣の激しいプレッシャーの前に完全に孤立し、チーム全体のオフェンスが麻痺を起こしていた。
「おい橘、ボーッと見物している暇があるなら、あの迷子をどうにかしろ」
隣で腕を組んでいた氷室大地が、不精髭をガリガリと掻きながら、心底鬱陶しそうに横目で彩音を小突いてきた。
「えっ……でも、タイムアウト中の指示は氷室コーチが直接出すべきなんじゃ」
彩音は不意を突かれて目を丸くし、抱え込んだバインダーを思わず胸元で強く抱きしめ直した。
「俺の仕事は枠組みを作ることだ。コート上の呼吸を一番理解しているお前が、自分の言葉で伝えないでどうする」
氷室はそう言い捨てると、審判に向けて審判席へ歩み寄り、冷淡な仕草でタイムアウトの手振りを要求した。
甲高い笛の音が館内に響き渡り、選手たちが肩を落としながら重い足取りでベンチへと引き揚げてくる。
美桜は先輩たちの視線を避けるように俯き、タオルに顔を埋めて荒い息を吐き出していた。
彩音は震える指先でクーラーボックスから真新しいスポーツドリンクのボトルを取り出すと、美桜の目の前に差し出した。
「神崎、飲んで。冷たいから少しは頭が冷えるわよ」
美桜は一瞬ビクッと眉を跳ね上げ、恐る恐るタオル越しに彩音の顔を見上げてきた。
その目は涙と疲弊で真っ赤に腫れ上がり、昨日叩きつけた暴言への罪悪感と怯えが濃く滲んでいた。
「彩音、先輩……すみません、私、全然ダメで……」
「謝る暇があるなら、私の話を聞きなさい」
彩音は自分の喉が激しく乾いているのを感じながら、首から提げたテーピングハサミを強く握りしめた。
(指示を出す側の人間になるな)
胸の奥で、かつてエースだった頃の自分がそう叫んでいたが、彼女はその迷いを力任せに押さえつけた。
「相手のディフェンスは、あなたが右にドライブすることしか警戒していないわ。だから、次にボールを持ったら左へフェイクを一つ入れてから、ローポストのセンターへパスを捌きなさい」
彩音の言葉に、ベンチ周辺の部員たちが一斉に息を飲み、驚きに満ちた視線を集中させてきた。
「え……でも、それじゃ私はシュートを打てないじゃないですか! 私が決めなきゃ勝てないのに!」
美桜は喉を鳴らして反論し、困惑したように視線を左右に揺らした。
自分の役割を奪われることへの恐怖が、彼女の表情を歪ませている。
「いいから黙って聞きなさい! あなたが囮になることで、相手の守備陣は完全に崩壊するのよ!」
彩音はタイムアウト終了のブザーが鳴り響く中で、今までに一度も見せたことのないような大声で怒鳴りつけた。
自分の声が館内に反響し、全身の血が激しく逆流していくような恐ろしい感覚に襲われる。
「私はもう、あのコートでシュートを打つことができない。でもね、あなたに勝ち筋を渡すことならいくらでもできるの! 私の目を信じなさい、神崎!」
彩音の叫びは、美桜の胸の奥底へ弾丸のように突き刺さった。
美桜の瞳から迷いが消え去り、力強い光が灯るのを、彩音は目の前ではっきりと確認した。
「……はいっ! 行ってきます、彩音先輩!」
美桜はボトルを置くと、強く頷いてコートへと勢いよく飛び出していった。
再開されたプレイで、美桜は彩音の指示通りに見事な左フェイクを入れ、敵のダブルチームを引きつけて見事なアシストパスを通した。
ノーマークとなったセンターが放ったシュートがネットを揺らすと同時に、試合終了のブザーが鳴り響いた。
ベンチ全体が歓喜に沸く中、美桜はまっすぐに彩音の元へと駆け寄り、言葉にならない笑顔で突き出された拳を掲げた。
彩音はその小さな拳に自分の拳を静かに重ね合わせながら、裏方としてチームを勝利へ導くという、まったく新しい快感が胸を満たしていくのを感じていた。
第5章 コートの外の指揮官
熱気と大歓声が巨大な屋根を揺らす県大会準決勝のメインアリーナは、数千人の観客が発する熱気で満たされていた。
コート上では全国大会の常連である絶対王者との激闘が繰り広げられており、得点板の数値は一進一退の攻防を鮮明に刻み込んでいた。
橘彩音はベンチの最前列で身を乗り出し、喉を掠れさせながらコート内の選手たちへ手元のバインダーを示していた。
首から提げたテーピング用のハサミが、彼女の動きに合わせて胸元でカチャカチャと小さな金属音を響かせている。
その音はもはや未練の象徴ではなく、戦場に立つ彼女の戦意を高める頼もしいお守りへと変わっていた。
「橘、相手のディフェンス陣形が変化したぞ。例のパターンの準備を整えろ」
隣に立つ氷室大地が低い声で短く告げ、スウェットのポケットの中で煙草の箱を弄るような仕草を見せた。
「分かっています、コーチ。相手のポイントガードはプレッシャーがかかると、必ず右サイドへの横パスを選択します」
彩音は素早くデータを頭の中で展開しながら、コート上の神崎美桜としっかり視線を交わし、手元で秘密のハンドサインを作ってみせた。
美桜は一瞬だけ力強く頷くと、肩口のボブカットを揺らし、左手首の赤いリストバンドを固く握りしめた。
相手攻撃陣がスピードを上げて攻め込んできた直後、相手ポイントガードが厳しい体制から右サイドへボールを放ち投げた。
「神崎、今よ!」
彩音の叫びと同時に、美桜は相手のパスコースへ矢のように飛び込み、見事な動体視力でボールを叩き落とした。
相手ベンチから驚愕の叫びが上がる中、彩音の分析通りの展開に会場全体が大きくどよめいた。
「やった……! 完璧に読めたわ!」
彩音は拳を固く握り締め、飛び跳ねるような衝動を必死で抑え込みながら、胸の奥から湧き上がる激しい歓喜に震えていた。
かつて自分がコート上でゴールを決めた時以上のゾクゾクするような達成感が、彼女の全身の血を熱く滾らせていくのを感じた。
「ふん、なかなかいい読みだ。だが調子に乗るなよ、相手もこのまま黙っちゃいない」
氷室はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、彩音の肩をポンと軽く叩いてコート内へと鋭い視線を戻した。
試合は最終クォーターのラスト一分、同点のまま最高潮の緊張感に包まれ、ボールは再び相手エースの手に渡っていた。
彩音は息を呑みながらバインダーを固く抱え込み、全神経を集中させて次の局面を見つめていた。
第6章 受け継がれる熱量
試合終了を告げる長鳴気のブザーがアリーナ全体に響き渡り、スコアボードの数字は一点差での劇的な勝利を示していた。
大歓声が会場を揺らす中、応援席へ向かって一礼した選手たちが、汗に濡れた顔に歓喜の笑みを浮かべてベンチへと駆け戻ってくる。
熱気冷めやらぬ体育館を後にした一行は、夕暮れ時の静かな河川敷へと足を運んでいた。
西の空がオレンジ色から深い紫へと変わりゆく中、川面を渡る身を切るような冷たい北風が、火照った身体を心地よく冷やしていく。
橘彩音は首元に巻いたチームカラーのタオルを固く結び直し、温もりに包まれながら土手をゆっくりと歩いていた。
隣を歩く氷室大地が、ポケットから使い込まれた例の真っ赤なバインダーを取り出し、何気ない仕草で彩音の胸元へと突き出してきた。
「橘、これは正式にお前にやる。来週からの全国大会に向けた分析、抜かりなくやっておけよ」
「えっ……これ、氷室コーチの大切なバインダーじゃないんですか?」
彩音は目を丸くし、差し出されたバインダーと氷室の顔を交互に見つめながら、素直に受け取るのを躊躇した。
「俺が昔使っていたお古だ。コートを見通すお前の目になら、これを預ける価値がある」
氷室は無精髭を軽く掻きながら不敵に笑い、背を向けて一人先へと歩き出した。
その背中に向かって、彩音は抱え込んだバインダーを強く抱きしめ、胸の奥からこみ上げる温かい感情に静かに唇を噛み締めた。
「彩音先輩っ!」
後ろから元気な叫び声が響き、肩口のボブカットを揺らした神崎美桜が勢いよく駆け寄ってきた。
美桜は彩音の前でピタリと足を止めると、左手首の赤いリストバンドを誇らしげにかざし、眩しいほどの笑顔を弾けさせた。
「先輩の指示通りに動いたら、本当に相手の動きが止まって見えたんすよ! 彩音先輩のパス、最高でした!」
「バカ言わないで。私はベンチから声を張っていただけよ」
彩音は照れ隠しに気怠げなトーンを作ろうとしたが、込み上げる笑みを抑えきれず、目元をゆるませて首を振った。
「ううん、あれは絶対に先輩からの最高のパスです! 私、全国大会でも先輩の頭脳を信じてコートを走り抜けますから!」
美桜の真っ直ぐな言葉と眩しい笑顔が、彩音の心に残っていた最後の未練と迷いを完全に吹き飛ばしていった。
自分はもう、コートの外から仲間に最高のパスを送り続ける「指揮官」なのだという誇りが、胸の中に満ちていく。
風に舞う落ち葉を踏みしめながら、彩音は二度と戻れない過去ではなく、どこまでも広がる未来のコートへ向けて、強く確かな一歩を踏み出した。
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